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道路が渋滞する理由を探ると鎌倉時代にまでさかのぼる!?

こんにちは、市民ライターの田辺です。
さて、この鎌倉市公式noteマガジン「まちとみち」では、鎌倉市の交通政策について紹介してまいります。今回のテーマは、まさに「市民を悩ませている週末や祝日の日中に発生する交通渋滞について」です。

観光シーズンに名所名跡まわりで見受けられる渋滞の光景。※写真はイメージ

お正月やゴールデンウィーク、あじさいの時期、夏休み、秋の行楽シーズンなど、クルマが動かなくてイライラすることありますよね。

今回の記事では、鎌倉で渋滞が起きやすい理由を探ってみます。

道路網は鎌倉時代から変わっていない!?

鎌倉市内の道路の流れが悪くなる理由を探ると、
なんと、源頼朝が拠点として鎌倉を選んだところにまでさかのぼります。
鎌倉歴史文化交流館の大澤泉 学芸員によると、頼朝が挙兵する以前の鎌倉には、古代の東海道や、海や川を利用した交通路が通っていたそうです。最初に鎌倉を拠点としたのが、頼朝の先祖に当たる源頼義。その後、頼朝の父・義朝も現在の寿福寺付近に屋敷を構えます。源氏は海や川の交通の掌握に積極的だったと考えられており、だからこそ、頼朝も鎌倉の地を選んだと考えられています。

そして鎌倉は、北・東・西の三方を山に囲まれ、南は海に面しています。もともと交通の要所であったとはいえ、鎌倉幕府が置かれて以降、急速に町が発展していくと、さらなる交通路の整備が必要となりました。

空からみた鎌倉のまち

鶴岡八幡宮の近くに幕府ができると、その周辺には市街地が形成され、山を切り開いて道をつくった「七つの切通し(きりどおし)」が外部との交通路となりました。

鎌倉と横浜市金沢区を結ぶ、朝夷奈切通(あさいなきりどおし)

これは現在にも受け継がれています。
つまり、主要な交通路というのは、鎌倉時代から変わっていないのです!

古都鎌倉の姿を守るから渋滞!?

御谷騒動(おやつそうどう)から知る「古都を守ること」と「道路整備」の両立の難しさ

渋滞を抜本的に解消するには、道路整備や交差点の改良が有効です。しかし、鎌倉市では歴史的遺産や自然の保全等の制約があるため、容易なことではありません。

1964年、鶴岡八幡宮の裏山、通称・御谷(おやつ)の開発計画に対して、御谷騒動と呼ばれる市民による反対運動が起きました。

古都保存法発祥の地「御谷」

これをきっかけに、日本の古都を守る法律・古都保存法が制定されます。

「鎌倉時代から変わらないまちの姿を守っていく」という目的には沿ったとして、「道路や交差点の改良に制限があるからこそ渋滞が起こりやすい」という、まさに、あちらを立てればこちらが立たずといった古都ならではの事情があるのです。

一部エリアへの密集も渋滞の原因に

鎌倉に訪れる観光客は、新型コロナウイルス感染症拡大の影響を受ける前までは約2,000万人でした。しかも、観光スポットが鎌倉駅や長谷駅の周辺に集中しているため、観光客は一部エリアに密集することになります。

しかし、このエリアも狭い道が多く、歩道から人があふれて渋滞している車道にまで広がってしまうことも。これは非常に危険です。
市民としても、訪れる人に安全・快適に鎌倉を楽しんでもらいたいものですが…。

次号では観光に訪れる人、住む人、働く人に渋滞がどのようなデメリットをもたらしているか、考えていきます。

みんなにも読んでほしいですか?

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