能登半島地震被災地支援~本市消防職員が土砂災害現場で救援活動「必ず助ける」
能登半島地震から2カ月近くが経過しました。水道が復旧した地域もありますが、いまだに断水の続く地域も多く、民間のボランティア活動がスタートしたばかりです。
わが国では過去の災害対応を教訓に、「被災地」と「支援自治体」をつなぐ仕組みがあります。大きな災害が発生した場合、国(総務省)がつなぎ役となり、被災地と支援自治体(おもに県単位)が1対1のペアを組みます。そうすることで、被災地の負担を減らしつつ、段階に応じて必要な支援を適時に届けることができます。
今回、神奈川県は輪島市の救援活動(人命捜索・救助など)を担うことになりました。
実際に輪島市で救援活動に携わった本市消防職員のレポート(第1次隊~第7次隊)をもとに、活動の様子をお届けします。
輪島に向けて出発
発災当日の2024年1月1日夜に県の先遣部隊が出動したのち、1月9日、第1次派遣隊は、大船支援車と鎌倉水槽車を含む神奈川県大隊約80台で被災地に向けて出発しました。
宿営地は能登町のやなぎだ植物公園。今回の地震では救援部隊の拠点になっていて、東京都・山梨県・新潟県などの部隊も続々と集まっていました。
私たちが活動を行うのは輪島市町野町。土砂が600mほど崩れて一軒家をのみ込んだ現場でした。
現場に近づくにつれて道路の陥没や隆起が増え、車両の走行にも気を使います。最後はスコップやチェーンソーなどを手に、雪道を歩いて到着しました。周囲はどこも山肌がむき出しになり、木々が折り重なって倒れています。
すさまじい土砂崩れの威力を目の当たりにし、言葉を失いました。と同時に、一刻も早く行方不明者を救助しなくてはという思いでいっぱいになりました。
ぬかるみに足を取られたり、ときどき崩落監視システムが鳴動して一時退避するなど困難な活動となりましたが、なんとか家屋の一部を発見することができました。
被災地のリアルを見る、聞く
土砂災害現場のほかにも、さまざまな場所で活動を行いました。
輪島朝市火災現場での行方不明者の捜索活動もその一つです。
移動途中、瓦ぶき家屋のほとんどが「パンケーキクラッシュ」(1階がつぶれ、2階部分が1階になってしまっているような倒壊形状)になっているのを目にし、どうか無事避難していますようにと、願わずにはいられませんでした。
また、被災して警備力の低下した町野町で警備に当たったときのこと、町の消防職員から地震発生直後の状況を直接聞くことができました。地震の揺れで消防車両が転倒して火災出動ができなかったこと、消火栓が使えず防火水槽の水も底をつき、海から水を吸い上げたことなど、思いもよらない事態に次々と直面したそうです。
改めて今回の地震の規模の大きさに驚くとともに、もし鎌倉で同様の地震が起こったらと思うと、身の引き締まる思いでした。
地割れ・大雨・雪に阻まれる
本市はこれまで、1/9出発の第1次隊から1/27出発の第7次隊まで、のべ41人が出動しました。基本的に1クール6日間、7人態勢で支援に当たります。活動の時期やフェーズによって、さまざまな課題にも直面しました。
例えば発災直後は、道路の隆起・陥没・液状などの状況が把握できておらず、ほとんどが手つかずの状況だったため、思うように活動できないことが多々ありました。
また、1月中旬以降は大雨や雪に阻まれ活動が中止になることもあり、悔しい思いをしました。
そんな状況の中、県内のさまざまな自治体職員がワンチームとなって活動するため、報告や情報共有が欠かせません。
ちなみに、今回活躍したのは消防職員(人)だけではありません。私たちの相棒ともいうべき"機材(車)"も、ハード面はもちろんソフト面でも大きな役割を果たしてくれました。
私たち消防職員が乗っていった大船支援車は、令和3年におきた静岡県熱海市の土砂災害の現場に緊急消防援助隊として出動しており、今回で2回目の出動になります。
人員輸送や資機材搬送に加えて、休息場所にもなり、現場で活躍する消防職員のためにも、大きな支えとなっています。
今後も、災害時を含め活用の場を幅を広げていきます。
この経験を生かして、私たちができること
災害時、国や地方自治体などの公助はすぐにはこないので、まずは自分自身や地域などで命を守る自助・共助が大切、としばしば言われますが、少しでも早く支援を届けようと自治体職員も奮闘しています。
今回の経験を生かして、本市の公助の質もさらに高めていきます。
次回は、事務支援で派遣された職員の活動を報告します。
(文章・広報課)